院長ブログ

幸せになる力

2019.10.06

 トラウマ治療に、EMDR(Eye Movement Desensitization and Reprocessing:眼球運動による脱感作と再処理法)という治療法があります。トラウマとなる記憶を思い出してもらいながら左右に眼球を動かすことでトラウマが解消されることを目指す治療法なのですが、これは目の動きが直接トラウマを消すわけではありません。この治療法はその前提として、「適応的情報処理モデル(Adaptive Information Processing; AIP)」という、人間は生まれながらに周囲の環境に適応するように情報を処理する能力がある、という仮説をもっています。つらい記憶ばかりが互いに結びつき固まってしまってトラウマになっているところへ、そのメカニズムはまだわかっていませんが、眼球運動や左右交互の身体へのタッピングという刺激を与えることによって、つらい記憶の結びつきがほどけて本来持っているAIPが活性化され、適応的で前向きに情報が整理し直されることによって苦痛が消えてしまうというのです。
 AIPに見られるつらい体験を意味のある体験に変換する機能は、おそらくあらゆる生物が生きていくうえで重要な能力なのでしょう。生物が生きていく限り、それを邪魔するようなさまざまな環境要因が存在します。自分を狙う敵もいるでしょうし、寒すぎたり暑すぎたり、食べ物がなく飢えてしまう危険もあります。リスクをいくら厳密に分析し対処しても、悪い事態が起こる可能性はゼロにはなりませんが、それでも私たちが前向きに生きていけるのは、「自分は生き続けて幸せになるべきだ」という根拠のない信念があるからです。あらゆる病は、そのような“幸福力”とでもいうべき潜在能力をさまざまな仕方で阻害しています。
 そうだとしたら、どんな病気のどんな治療も、直接症状を取り去ることが治癒をもたらすわけではなく、阻害された“幸福力”を回復させることがその本質であることがわかります。医療者や支援者は、治療と称して、悩む人が潜在的に持っている“幸福力”を引き出す工夫を日々行っているわけです。心の病の当事者や家族のミーティングの司会をすることがありますが、司会からとくにアドバイスなどしなくても参加するだけで元気になる人がいるのは、その場の持つ力によってそれぞれの“幸福力”が活性化されるためなのでしょう。
 日々の生活のなかにも、自分の幸せになる力を刺激できることはたくさん隠れているように思います。幸福力の栄養になるものを探してみると、意外に探しているだけでも栄養になったりするのかもしれません。